先週・先々週と、政策に関するやや堅い話題が続きましたので、今回は少し柔らかいトピックとして、私の古巣である経済産業省についてお話してみたいと思います。
私は、平成19年(2007年)に経済産業省に入省しました。国家Ⅰ種の入省同期は、事務官24名、技官17名の、合計41名だったと記憶しています。今でもとても仲がよく、個別に少人数で飲む機会も多いほか、誰かが退職する際などには同期全員で集まって飲み会を開いています。
私が入省した年はまだ働き方改革がなされる前のことで、入省初日に配属された部署の先輩から、「松本くんは来月司法試験を受けると聞いてるから、今日は終電で帰っていいよ」と言われた記憶があります。今にして思えばすごい時代だったなと思いますが、職場は熱気にあふれており、日本の未来のために、むしろ望んで職場に残っていた人が多かった印象です。
私が最初に配属された部署は、経済産業政策局にある経済産業政策課(現・総務課)というところでした。日本経済の再生をやりたいという私の思いに人事の方が応えてくれて、1年目から「経済成長戦略大綱」という、日本の経済成長戦略の策定を担う部署に配属して頂きました。当時はまだ日本経済は世界第2位の規模を誇っていましたが、中国の急速な追い上げにあっており、20年後、30年後の日本経済は、どの産業が牽引役となっていくべきなのだろうかといったことを、省内で夜通し議論したことをよく覚えています。
経済産業省は、色々とご批判を頂くこともありますが、職員の優秀さやモチベーションに関しては、1府12省庁の中でも1、2を争うのではないかと思います。私を採用して下さった江崎禎英・元内閣府大臣官房審議官(平成元年入省)や鈴木英敬衆議院議員(平成10年入省)などの多くの優秀な方に囲まれて、毎日非常にエキサイティングでした。よく批判されるような、自分の省庁の省益のみを考えている人など、少なくとも私は見たことがありません。職員が離職する理由には様々なものがありますが、日本をよりよくするために別の分野に挑戦したいと思って辞める方も非常に多いと思います。
私は令和2年7月に、入省14年目で経済産業省を退職しました。最後のポストは、「ロシア・中央アジア・コーカサス室長」という、ロシアや中央アジア地域との経済関係の発展を担う管理職でした。大好きだった経済産業省を退職するのは非常につらかったですが、皆さん快く送り出して下さり、今も私の挑戦を個々人として全力で応援して下さっています。これからも経済産業省で約13年4か月間経験したことを活かして、この国と柏の経済再生のために全力で頑張っていきたい。そのように思っています。
なお、このことは決して経済産業省の言いなりになるという意味ではありません。私は、政治家と官僚には役割に大きな違いがあり、それぞれが別の観点から同じ目的に向かって進んでいるようなものだと考えています。この辺りの、「政と官」を巡る点については、改めて別の機会にお話させて頂きたいと思います。