新年明けましておめでとうございます。今回は、前回のブログで経済産業省について述べたことと関連して、やや抽象的にはなってしまいますが、私が考える「政と官」の違いについて簡単にお話させて頂きたいと思います。

私は、2020年7月に約13年3ヶ月間勤めた経済産業省を退官した後、2024年10月に自民党の千葉8区支部長に選出されるまでの約4年強の間、民間の法律事務所で弁護士を務めながら、政治家と官僚は何が違うのだろうということを考え続けてきました。そして、現時点における結論は、「政治家と官僚は95%が異なる」ということです。逆に言えば、政治家と官僚の重なる点は全体の5%くらいしかないと考えています。

まず、官僚の本質は「理」だと思います。選挙で選ばれていない以上、自らの正当性の基盤は「理屈の正しさ」、すなわち「合理性」にしかありません。だから、理屈を徹底的に突き詰める。経済産業省における官僚としての最大の誉め言葉は、何を聞かれても理路整然と答えられる状態を指す、「君、詰まってるね」という言葉でした。

一方、政治の本質は「感情」です。理屈云々は抜きにして、他人の思いに共感する、あるいは誰かの行動に感動する、といったことが政治の基盤にあります。とある有名な政治家が、文字で読むとあまり理屈が通っていないように感じられるにも関わらず、その言葉で人々を熱狂させることが出来る理由は、政治の本質が「理」ではなく「感情」にあるからです。すなわち、その政治家には、たとえ理屈はなかったとしても、人々の胸に突き刺さる言葉がある、ということです。

そして、私は、日本を含む多くの国において民主主義が採用されている根本的理由は、「理屈のみではよい社会は作れない」という人類の経験知があるためだと考えています。もちろん、このことは理屈が重要でないということを言っているのではなく、あくまで社会の基礎は理屈に置いた上で、それが実際に暮らす人間にとって生きやすい社会となるように、理屈の上に感情を置いて全体を調和させる役割を政治に期待している、ということだと考えています。もしそうでないのであれば、科挙のような筆記試験の成績順に総理大臣以下を決めていけばよいはずですが、我々はそうではなくそこを選挙で決めている。そこには、長年の人類の叡智が詰まっているのだと考えています。

また、理屈のみでは現在の延長線上にしか未来が描けないという点も、政治家が必要とされる理由の一つだと考えています。これは私が、経済産業省において官僚の限界として痛感したことでした。官僚はどこまで行っても、現在の状態を前提にした上で、過去の日本社会や諸外国において前例がある事項を積み重ねていくことしかできない。逆に言えば、現状を大きく変えてゼロから作り直す仕事はできない。これは、選挙で選ばれていないからできないのではなく、「理」でできる範囲を超えているからできないのだと考えています。

このように、「政と官」は基盤としているものが異なる以上、政治家と官僚は考え方も行動原理も全く異なりますし、私はそれでよいのだと考えています。官僚は理屈を突き詰め、政治家は人々の想いに寄り添う。どちらかが他方を凌駕するのではなくて、その上手な役割分担の先にこそ、よりよい日本社会が描けるのだと思います。そして、私は、「理」を踏まえつつも、お一人お一人の方のお気持ちに共感し、その思いを実現する政治家でありたい。そのように考えています。