本年1月2日に公開しました「「政と官」について」というブログにつき、非常に有難いことに、一部の方から大変なご好評を頂きました。そこで、今回はその続きとして、政治の本質である「感情」の最も大事な要素である「共感」に加え、政治にはある種の「狂気」も求められるのではないかという、私の考えを述べてみたいと思います。

「狂気」とはそもそも何であるのかという点については、フーコーに代表される分析やアインシュタインの有名な定義などが存在しますが、ここではひとまず、「理性や社会常識からは通常導き出されない判断を下すことを可能にする精神状態」としておきたいと思います(学術的に厳密な定義ではありません)。何故、政治には時としてこうした「狂気」が必要なのか。逆に言うと、何故、「理性」や「社会常識」のみでは足りないのか。

私は、政治において「狂気」が発露された事例には事欠かないと考えていますが、その顕著な例の一つとして「桶狭間の戦い」があると考えています。このとき、今川義元が率いていた軍勢は25,000人とも言われるのに対し、織田信長が動員できた兵力は2,000人から3,000人でしかなかったとされており、正面から戦ってもとても勝ち目はない。そのため、信長の家臣はみな、尾張の本城である清州城に籠城すべきことを進言したと言われています。

ところが信長は、周知の通り、有名な「敦盛」を舞った上で、城から打って出るという判断をします。これは尋常な判断ではありません。清須城に籠城すれば、少なくとも数か月は生き長らえる可能性がありますし、その間に何か事態が変化するかもしれない。ところが、ひとたび城から出てしまったら、兵力差からみて99%くらいの確率で翌日に死ぬことになるわけです。これはまさに「狂気」の判断と言うことが出来ると思います。

その結果は周知の通りですが、未来は決して計算し尽くせるものではなく、ことに政治には様々な人間的要素が絡むことから、「理性」や「社会常識」ではかることができる範囲には限界がある。また、政治は、何をやるにしても反対する人が必ず出てきますが、そうした人が主張することにも一定の理屈があるのが通常であることから、「理性」のみでは思い切った判断をすることが難しい。そこに、政治にある種の「狂気」が必要とされる理由があるのではないか、と考えています。

日本の総理大臣の中で優れた人物は数多くいますが、中でも特に「理性」に秀でていた人として、若槻禮次郎元首相が挙げられると思います。若槻は、司法省法学校、帝国大学法科(現在の東京大学法学部)をいずれも首席で卒業し、大蔵省に入って事務次官まで務めた秀才中の秀才です。恐らく「理性」でこの人の右に出る人物はそれほど多くはない。しかしながら、総理大臣としては、例えば、第二次内閣のときに、政治が団結して軍部の暴走を抑えるため、水面下で議論されていた民政党と政友会との連立内閣構想を様々な理由から決断できず、関東軍による満州事変の拡大を事後的に追認していきました。若槻ほどの「理」の人物でもあるべきと考えられる決断ができなかった以上、やはり、政治は「理性」のみでは足りないと言えるのではないか、と考えています。

なお、私は、政治に「理性」が不要だと言っているわけではもちろんありません。むしろその逆で、通常は「理性」に基づいて判断を下すことが望ましいと考えています。ただし、国家の存続がかかった緊急時や思い切った経済改革を実行すべき局面など、ある種の状況下においては「理性」のみでは判断を下すのが難しいことがあり、そこに「狂気」が求められる理由がある。そして、その「狂気」の方向性だけは決して間違えてはならない。そのように考えています。

現在の日本は、内外に数多くの課題が山積し、困難な判断が求められる局面が一層増えてきています。そうした中、政治に求められるものについて思いを巡らすことには意義があると考えています。「理性」と「感情」、そして「感情」の中に含まれる「共感」と「狂気」。これらの適切なバランスのとり方こそ、政治家が日頃から修練して磨かなければならないものだと私は考えています。