ここ数回は政策に関するブログが続きましたので、今回は、政治家と官僚との違いについて述べる第3弾の論考として、政治と「信頼」に関して、ごく簡単に述べてみたいと思います。関連する以前のブログである「「政と官」について」、「政治と「狂気」について」につきましても、お時間のある際に是非ご覧頂けますと幸いです。
政治に対する国民の信頼の源は何か。私は、お金や私生活についてクリーンであることを大前提とした上で、最も大事な要素とは、突き詰めると、「言ったことをやる」ということだと考えています。そして、「言ったことをやる」ために最も必要なこととして、政治家には、「ごまかさずに本音で勝負する」ことが求められていると考えています。
政治には時として、「はい」または「いいえ」で答えなくてはならない場面が出てくることがあります。例えば、「選択的夫婦別姓に賛成か、反対か」、「女系天皇に賛成か、反対か」、「減税に賛成か、反対か」といった質問を受ける場面です。こうしたとき、官僚時代の私であれば、質問している人はどういう考えなのかということを推し量った上で、相手の意に沿いそうな答えを示していただろうと思います。しかし、これは政治家にとっては誤った思考方法です。仮に自分の本心とは異なる、相手におもねった答えをして、もしそれが間違っていたら自分の本心を素直に言えばよかったことになりますし、仮に相手が同じ見解であったとしても、少なくとも相手を騙していることになります。むしろ、政治家はこういう大事な場面でこそ、勇気を持ってごまかさずに本音で勝負する必要がある。その結果、仮に相手から「自分は違う意見だから、あなたを支持しない」と言われたとしても、それは甘んじて受け止めるべきだと考えています。
そして、冒頭で述べた「言ったことをやる」ためには、その前提として「本音で勝負する」ことが必要になってくると考えています。前回のブログでも述べさせて頂きましたが、政治は何を行うにしても反対する人が必ず出てきます。そこを狂気で突破するためには、それが「自分の本当にやりたいこと」である必要があります。したがって、「言ったこと」が本心でない限りは結局実行されず、そのような「言ったことが実行されない」ということの積み重ねが、やがて政治の信頼を損ねていくのだと考えています。
私の好きなことの一つに大河ドラマの鑑賞がありますが、松山ケンイチさん主演の『平清盛』の印象的な場面の一つに、若き日の清盛が、当時、「神そのものが宿る」として権力者さえ傷つけることが許されなかった神輿(しんよ)に矢を射るシーンがあります(なお、これは史実ではないと言われています)。その結果、清盛は父・忠盛と共に蟄居(ちっきょ)せざるを得なくなり、平氏一門は失脚の瀬戸際に立たされることとなります。そうした中、当時の最高権力者である鳥羽上皇が蟄居中の清盛の元を訪れ、清盛に対し、「狙って神輿を射たのか」と尋ねます。これに対し清盛は、もし鳥羽上皇の怒りを買った場合には命がないことも覚悟した上で、「狙って射ました」とごまかさずに答えます。そのことに感銘を受けた鳥羽上皇は清盛を許し、平氏は滅亡の危機を免れることとなりました。
もちろん、これはドラマにおける創作なのですが、このシーンには、政治家としてのある種の大事な心構えが示されていると感じることがあります。本当に大事な場面でこそ、相手の顔色をうかがうのではなく、ごまかさずに本音で勝負できるかどうか。そのことこそが、政治家のその後の行動を左右し、それがひいては政治の信頼へとつながっていく。政治家の一言には、それだけの重い意味合いがあることを心に刻んだ上で、これからも日々努力をして参りたいと考えています。