「政治の意味は自由である」。これは、政治哲学者のハンナ・アレントの言葉です。このとき、アレントが念頭に置いていた政治体制は、現代の代議制民主主義ではなく、古代ギリシアのアテナイの民主制であったと言われています。今回は、先日の参議院選挙も踏まえ、主にアテナイの民主制を題材に、「政治と自由」との関係について、私の考えを簡単に述べてみたいと思います。

まず、アレントの言葉の意味を理解するためには、かつてのアテナイの直接民主制のイメージを持っておくことが重要です。そこでは、「民会」が最高の議決機関とされ、市民であれば誰もが民会に出席して、発言・投票する権利が与えられていました。アリストテレスは、アテナイにおいては、この民会に参加をして、弁論によって自らの「卓越」を示すことにより、その人間性の完結をみることこそが、人間の「究極目的(テロス)」であると考えられていたとしています。

現代に生きる我々の視点から、このアテナイの理想を理解することは容易ではありませんが、ここでは、アテナイの民主制に参加できた「市民」とは、あくまで奴隷を除く成人男子という、ごく限られた人だった点に注意が必要です。こうした「市民」は働く必要がない(労働は奴隷が、家事は女性が行ってくれる)という意味において、第三者の「束縛」からはもちろん、日々の糧を得るための「必然性」からも解放されていました。他者の強制からも、生活に必要な労働からも解放されているという意味で「自由」を持つ者のみが、アテナイの民主制に参加することができた。したがって、政治に参加できるということは、現代よりも広い意味合いで「自由」であることを意味していた。そして、そうした「自由」を持つ者のみが、自らの潜在的な可能性を達成することができた。アレントの言葉は、こうしたことを意味していました。

こうしたアテナイの民主制を特徴づけていたものは、「参加」と「責任」のシステムであったと言われています。市民であれば誰もが民会に参加できた一方、弁論を駆使して公職に就いた市民の活動には徹底した審査が行われ、事後に苛烈とも言える責任の追及がなされていました。こうした責任追及の対象とされた者のうちで最も有名な一人として、アテナイの民主制を整備し、ペルシア戦争に勝利してその全盛時代を築いたペリクレスがいますが、本ブログでは深堀りしません。ここでは、「自由」には大きな「責任」が伴ったことが重要です。

松本いずみは、時代も社会背景も全く異なることから、アテナイの民主制を現代の代議制民主主義に当てはめることは適切ではないと考えています。しかしながら、それでも、現代を生きる私たちに何らかの示唆を与えてくれるのではないかとも感じています。今回の参議院選挙においては、そもそも前提としている事実関係が正しいのかさえ十分に検証されていない主張も散見され、そうした主張に一定の投票行動が影響を受けた可能性も指摘されています。そして、日々の溢れる情報の中で、そうした主張を行った者が事後に厳しく責任を追及されたという場面も十分に目にしておりません。松本いずみは、こうしたことを許してしまうと、この国の民主主義は、たとえ言っていることが事実ではなくても「言った者勝ち」となってしまい、やがて嘘が横行し、誰も民主主義自体を信用しなくなってしまうのではないか、と強く危惧しています。

アリストテレスは、政治体制を「良い政体」と「悪い政体」とに分け、良い政体のうちで、権力が一人の手にあるものを「王政」、少数の者の手にあるものを「貴族政」、多数の手にあるものを「共和制(ポリティア)」と呼びました。そして、悪い政体のうちで、権力が一人の手にあるものを「僭主政」、少数の者の手にあるものを「寡頭政」、多数の手にあるものを「民主制(デモクラティア)」と呼びました。彼の理想は、「王政」、「貴族政」、「共和制」の混合政体であったと言われていますが、ここでは深堀りしません。

そして、『君主論』で有名なマキャベリは、こうした政体は時代とともに循環すると考えていました。能力と徳に溢れた良き王が統治する「王政」が堕落し、やがて「僭主制」となる。その後、権力は一定の少数の者の手に移り、僭主による暴政の記憶があるうちは国民全体の利益を追求する「貴族政」として機能するものの、やがて少数のグループの利益のみを追求する「寡頭制」に堕落する。そして、不特定多数の者が公共の利益を目指して統治する理想的な「共和制」が確立し、やがてその時々の感情に流される「民主制」(現在の言葉でいう「ポピュリズム」に近い)へと堕落し、再び「王政」に戻る。マキャベリ自身は複雑な人物であり、果たして彼自身が君主制論者であったのか、それとも本当は共和制論者であったのかは現在でも議論が分かれていますが、少なくともマキャベリが、過去の人類の長い歴史を見る限り政体は常に循環してきた、と捉えていたことは事実のようです。

こうしたマキャベリの政体循環論が妥当なのかどうかについては様々な議論がありますが、民主主義は決して当たり前のものではなく、私たちが不断の努力で支えていかなければ、いつでもポピュリズムに堕落してしまう危険性を常に抱えている、という点が重要だと思います。そして、日本の民主主義がポピュリズムに流れてしまわないよう、政治家は常に襟を正して、国民の皆様から疑念を抱かれることがないようにするとともに、たとえ耳に痛いことであったとしても、事実を正しく国民に伝える努力を続けていかなければなりません。政治における「自由」には、常に大きな「責任」が伴う。松本いずみは、これからもこのことを決して忘れず、日本を前に進めるための政策づくりに全力で取り組んでいきたいと考えています。