「この国のかたち」について考えるシリーズの第5回目は、明治憲法下で明治天皇がどのように振る舞っていたのかを、ごく簡単に見ていきたいと思います。松本いずみは、明治憲法上、「統治権の総覧者(そうらんしゃ)」とされていた天皇の実際の行動を見ていくことは、「この国のかたち」の一端を浮かび上がらせてくれる一つのきっかけになると考えています。
明治天皇(諱(いみな)は睦仁(むつひと))ほど、その生涯において自らの境遇が劇的に変化した天皇もいないかもしれません。生まれは江戸時代の嘉永5年(1852年)11月、ペリーの黒船が来航する1年前でした。当時は幕威なお盛んで、その15年後に幕府が倒れるとは夢にも思われなかった時代です。当時の朝廷は、経済的には3万石程度の小大名と同じであったとされており、旗本と合わせて800万石を有していたとされる徳川幕府とは圧倒的な力の差があり、また政治的な発言力も与えられていませんでした。
その後、時代は大きく動き、明治天皇は、倒幕及び明治維新の象徴として、孝明天皇の崩御から約1年9ヶ月後の慶応4年(1868年)10月に即位しました。 しかしながら、明治維新当時、わずか15歳であった明治天皇は、未だ実際に最終的判断を行うだけの判断力が備わっていないものとされ、実際の政治権力は太政大臣(だいじょうだいじん)を頂点とする太政官(だいじょうかん)に握られていました。維新直後の明治天皇は、朝から夕方まで主に学問や乗馬をして過ごし、政務を行うのは昼食後の限られた短い時間に過ぎなかったようです。
また、太政官制の下においても、天皇に決裁を求める事柄は、全て予め参議(さんぎ)の審議を経てその連印を得た上で太政大臣が印を押し、天皇の決裁を受けて実施に移すものとされていました。そのため、天皇が決裁を拒否すればあらゆる重要な事柄を実施することが出来なかったものの、逆に天皇自身が何かを意図したとしても参議らの承認がないと実施することはできず、前に述べた明治憲法第55条とほぼ同様の仕組みが既にとられていたと言えました。
そして、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった明治維新の大物政治家を前にして、若年に過ぎない当時の明治天皇が自らの意思を通すことは事実上困難であり、この時期は、藩閥政府の参議らに引け目を感じながら、それらの者が決めた事項を受容することしかできなかったとも言われています。
更に時代が過ぎ、明治憲法が発布された明治22年(1889年)頃になると明治天皇も30代後半となり、政務に対する十分な判断能力を有するようになったものの、明治天皇の学友でもあった公家出身の侍従(じじゅう)・藤波言忠(ことただ)らから、「君主機関説」の講義を受けた影響もあり、自身の役割については、原則として日常は政治関与を行わない君主であると考えるようになったと言われています。
明治憲法制定後は、帝国議会において政府と議会とが対立した際に、天皇自身が両者の歩み寄りを促す「詔勅(しょうちょく:天皇が発する公的文書のこと)」を発出することなどもありました。その最も有名な例が、清との関係の緊迫化から海軍増強を至急の課題と位置付けて軍事費の大幅拡大を主張する政府と、「民力休養」を訴える議会との間で対立が続いた結果、明治26年(1893年)2月に発出された、「和協の詔勅(わきょうのしょうちょく)」です。そして、この詔勅は、政府と議会との対立が長引くことに危機感を持った、伊藤博文の側近である井上毅(こわし)が、状況を打開するために詔勅を活用することを提案して実現したものとされています。
こうした例は、明治天皇自身が強い意志をもって権限を行使するのではなく、国家機関同士の対立が激しくなり、国家としての意思決定が難しくなった危機時に、明治天皇が敢えて自らを維新の元勲(げんくん)(注:明治維新に大きな勲功のあった伊藤博文や山縣有朋などを指します)に「政治利用」させることによって、対立を仲裁していたことを示すものであったとも言えます。
また、明治24年(1891年)5月には、日本を旅行中だった当時のロシア皇太子ニコライを、巡査津田三蔵が切りつけ負傷させるという、いわゆる「大津事件」が発生しました。明治天皇は、当時の松方正義首相らの助言を受け、事件の翌日にニコライを見舞い、拉致の危険も顧みずにロシアの軍艦に乗り込んで晩餐を共にし、これらの対応によってロシアとの戦争が回避されたと言われています。
この出来事により明治天皇の威信が高まり、更にその後の日清戦争において、暖炉もない広島の大本営で朝7時から夜11時頃まで熱心に戦争指導を行ったことにより、藩閥政府や国民の間における明治天皇の権威が確立したものとされています。
しかしながら、明治天皇は、自らの権威が確立した後においても政治問題には積極的に介入せず、まずは内閣や議会、陸軍及び海軍との間における調整に委ね、自らが好ましく思う路線が決まりそうになったときに裁可を下すという、政治的に慎重で賢明な政治スタイルを貫いたと言われています。まさに名君であったと言えるでしょう。
これらの事例に示されるように、明治天皇による大権行使は、「天皇親政」といった言葉に代表される天皇及びその側近の独自の意思に基づく形式ではなく、あくまで内閣や議会、軍部などの有力な国家機関の間で政治的対立が生じた際に、双方の立場と主張とを慎重に見定めた上で、国家の「最高機関」としての最終判断を下して対立を調停するという形で、極めて限定的に行使されていました。これが「統治権の総覧者(そうらんしゃ)」とされていた天皇の、明治時代における実情だったのです。
今回も長くなってしまいました。次回は、近年、学界などにおいて再評価がなされている大正天皇について、少し見ていきたいと思います。